『相対』の例その2



『望郷』



 また、僕は『最長片道切符の旅』と『乗りつくしの旅・春編』の間に、NHKの『望郷』というドラマに出演させていただきましたが、そこにも『相対』がありました。というか、『望郷』は僕にとって、『相対』だらけだったともいえます。


 まず内容。収容所で出会った渡辺とアールヒップの友情。それは大変深いものでした。しかし二人の出会いも、その友情の深さも、あってはならない戦争があってのことでした。なんという皮肉でしょうか。


 戦争というものには、他にも様々な『相対』が眠っています。これまで戦争が、戦争の本当の悲惨さを知らない人々によって引き起こされて来た点にもみられます。
 また、飛行機や原子力など、これまで人類の発展に有用だったはずの発明が、逆に戦争に利用されて来たことにも『相対』の真実があります。ライト兄弟は飛行機の発明に成功したとき、なんと「これで戦争がなくなる」と思ったそうです。現代の僕らからすると「何を寝ぼけたことを」と思ってしまいますが、当時の戦争のしかたからすると、飛行機の登場は、戦争を根本的に不可能にしてしまうようにしか見えなかったのだそうです。原子力の発見に貢献したアインシュタインも、自分の発見が大量殺戮に使われることになってしまったことに、終生心を痛めたといいます。
 となると、僕たちは一体どうやって恒久的な平和を実現すればよいのでしょうか。発明しないことでしょうか。それでは人類が発展しません。では友好でしょうか。しかしそれなら、多くの人がそう願って来たのに、戦争は起き続けて来ました。では防衛でしょうか。しかし軍備の増強が、周辺国に不安を生み出すこともあります……。
 まったく戦争と平和というものの間には、単純には解決できない、様々な深い『相対』たちが横たわっているものです。


 僕が『望郷』に出演することになった経緯にも『相対』がありました。僕は大学生の頃、NHKの『大地の子』を見て俳優になりたいと思いました。その後ずっとそういう作品を探してゆきますが、出会えませんでした。そして大室山で俳優を廃業することを心に決め、旅に出てみると、『望郷』でその願いが叶ってしまいました。なんと、『望郷』の岡崎監督は、『大地の子』の監督だったのです(!)。
 しかしなぜ岡崎監督は、『望郷』に僕をキャスティングしたのでしょうか。岡崎監督は、『最長片道切符の旅』で旅をする僕を見て何かを感じ、『望郷』へのキャスティングを思い立ったのだそうです。
 とすると、もし僕が廃業しようとせずに『大地の子』のような作品を探し続けていたら、逆に『望郷』には出演できていなかったかも知れないわけです。なんという皮肉でしょうか。


 『望郷』は僕にとって、内容においても出演の経緯においても、実に『相対』に満ちた作品だったのです。

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『相対』の例その1

『子供』が僕を好いてくれたわけ


 『相対』は何事にも通じるスーパーキーワードと言いましたが、本当に何事にも言えます。例えば、旅中の子供。
ご存知の通り、旅中気付けば僕の周りにはたくさんの子供がいました。一体なぜなのでしょうか。その理由の中にも『相対』があります。


 僕たちは子供を見ると「カワイイ」と言いますが、残念ながらそれは一つに、僕たちが彼らを「未熟」だとみなしているところがあるからだとも言えます。僕たち大人は既に子供時代を体験しているのに対して、子供はまだ大人を体験していないわけですから、当然といえば当然かも知れません。しかし、果たして僕たち大人は本当に、子供よりも何もかもが優れているのでしょうか。進化成長したのでしょうか。


 僕はそこに隠された『相対』を見ます。人間には「進化」もあれば、「退化」もあるからです。日本を旅中、雨の日に列車で出会った男の子が、窓の雨粒を見て流れ星に見立てたエピソードがそれを端的に表しています。彼の方が、僕よりも明らかに見立てが優れていました。そのような例は、旅中枚挙に暇がありません。僕は旅を通して、実に様々なことを子供たちに教えてもらいました。


 また、日常僕たち大人が、子供に対して簡単に「してあげる側」と思っていると、実は子供も僕たち大人に対して、色々と「してあげたい」と思っている存在であることを忘れがちになります。
 中国の列車の中で出会った女の子は、自分が大切にしているイヤリングを僕にくれてしまいました。日本の秋の旅の時、北海道のアイヌコタンで出会った女の子も、一生懸命作った草のアクセサリーを僕にくれてしまいました。そうした子供たちの厚意が、どれほど過酷な旅を救ってくれていたことでしょうか。


 よく考えれば、僕自身の中にも、子どもの頃から何も変わっていない部分がたくさんあります。一度大人になったものの、最近になって子どもの頃に戻ってしまった部分さえたくさんあります。なので僕はもとより、子供との間に優劣を感じない上に、「してもらいたい」こともたくさんありました。「遊んであげたい」ではなく、「遊んで欲しい」のです。
 「遊んで欲しい」のですから、「僕いくつ?」とか、「お名前は?」などと、大人のスタンスから聞かないことも多々ありました。不要な情報なしに、いきなり遊んでもらうのです。すると子供たちは、瞬時に絆を結んでくれました。なんと素敵なことでしょうか。


 自分の自信のために、これまでの自分が間違っていなかったと思いたいがために、何でもいいから他人よりも優れている「しるし」を必死に探している僕たち大人。それでは子供たちに絆を結んでもらえません。その時点で僕たちはすでに、そうとは知らず、他人を「対立」「競争」の関係に置いているからです。いくら「カワイイ」と褒めても、いくら「お兄ちゃんと遊ぼう」と言って“あげて”も、子供はそれを見抜きます。その点においても、子供は僕たちよりも優れているのかも知れません。


 僕たち大人は、子供にしてあげなければいけないことがたくさんある一方で、子供からしかしてもらえないこともたくさんある。そこにも、『相対』の真実があったわけです。


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第五回大室山ライブ後記2 ~相対の向こうに~

 僕は今回のライブで、今後の世界や僕たち一個人一個人に大切になってくるだろうキーワードとして、『相対』という言葉を提示しました。これは僕のこれまでの旅や人生を貫くキーワードでもあったばかりではなく、実に何事にも通じるスーパーキーワードなので、僕が意図するところをすべてここで説明することは不可能なのですが、一つには、前述した「手軽で便利で簡単」の相対、「やりたいことを自分とは別の外のものにさせること」の相対をなすものを表してもいます。つまり「大変で不便で難しくても自分でやろうとすること」です。

 それはまさに、2003年のあの日、大室山でこの僕に起きたことそのものであり、今回僕たち大室山ライブ参加者ひとりひとりが経験したことそのものでもありました。この過酷な大室山ライブです。大室山ライブは、経験されたように、行くのが大変で、過ごすのにも不便で、趣旨も難しいものです。「手軽で便利で簡単」の反対です。生演奏する参加者たちにとっても、楽器を運び入れるのが大変で、演奏するのに不便で、聴く人に完成度の高い演奏を届けるのが難しいライブです。

 しかし僕たちは、ある程度そうとは知りながら、その「手軽で便利で簡単」の反対の「大変で不便で難しい」大室山ライブをやってみました。やってみた結果、天城連峰太鼓の演奏が素晴らしかった。みんなで民謡を踊るのが楽しかった。霧が現れ、僕たちは皆そこに幻想的な何かを感じました。

 お金さえ出せば、自分がやりたいことを、自分ではない「手軽で便利で簡単」なものがやってくれるはずの僕たちが、敢えてその反対側をやってみたら、その向こうに、曰く言いがたい新鮮な感動がありました。そればかりか、「何か本当の自分に帰ることが出来たような気がする」とおっしゃる参加者がたくさんいらっしゃいました。これはどういうことなのでしょうか。

 僕たちは普段、善かれと思った道を選択して生きています。また都合が良いと思う方、好きだと思う方を選択して生きてきました。ということは、おおよそ善くないと思った道、都合が悪い方、嫌いだと思う方は選択しないで生きて来た部分があるともいえます。選ばなかった半分です。しかしそれらは果たして、本当に善くなかったのでしょうか。本当に都合が悪かったのでしょうか。本当に嫌うべきものだったのでしょうか。今となっては推し量る術もありません。どうやら大室山ライブは一つに、その「選ばなかった半分の方」をシミュレーション的に感覚体験するという一面があるようです。

 例えば、僕たちは日常よく「明日晴れたらいいな」と言いますが、大室山ライブでは「曇ったらいいな」と思います。ちょっとくらいなら雨が降って欲しかったりする人さえいます(俺?...汗)。普段なかなかそうは思いません。
 また例えば、僕たちは普段、「何かありそうだな」と思うからそこへ赴いてみます。しかし大室山ライブでは、草と空しかない上に、ステージもありません。何もないのに、否、人によっては「何もないからこそ」お越しになります。

 つまりこのライブでは、普段感じたことがないある反面を感じる体験が出来るところがあるということです。このライブに参加することによって、僕たちの中で初めて何かが両面揃うわけです。すると、まるで扉の両方に鍵がついている入り口が開き、その向こうが見えるようになるかのようなことが、僕たちの心の深奥で起きるのかも知れません。

 草と空しかない景色なら、普段テレビを見ていれば、ミネラルウォーターのCMなどでいくらでも見れます。太鼓の演奏もそうです。霧もそうです。民謡を踊りたければ、なにも大室山に来なくても、お祭りにでも行けばいくらでも出来ます。どれも決して物珍しいものではありません。それが、どういうわけか新鮮に感じられる。
 実は、一見主催者や演奏者、或は大室山が感動させてくれているようで、それは反面だったのです。参加された方自身の中に、それらに感動する素養が内在されていたのです。それがもう一つの、大室山ライブに無くてはならない反面、即ち相対です。そこに、僕が皆さんを「お客さん」とお呼びせず、「参加者」とお呼びするワケもあります。そこにあなたがいなければ、感動は生まれなかったのです。それはある意味では、主催にも等しいことなのです。

 これまでの旅も同様です。それをあの時ご覧になったあなたがいなければ、旅も最初の一度で終わっていたのです。最初の一度の旅で終わるということは、旅の終着駅であり始発駅である大室山ライブも終わっていたのです。旅人は誰かといえば、大室山ライブの主人公は誰かといえば、それはあなたなのです。それがもう一つの扉の鍵です。
 そしてあなたがそこで感じたことは、あなたという旅人・主人公からすると『外』である僕が感じたことをいくら正確に知ろうと思っても無理なように、僕が自分が感じたことをいくら正確に伝えようとしても無理なように、今後のあなたに欠かせない、あなただけのオリジナル体験なのです。

 ビジョンによれば、これから未来に国際交流イベントにもなるらしい大室山ライブ。それは僕たちが選ばなかった、或は忘れて来た、『相対』という名の扉のもう一方の鍵を、共に開く挑戦の向こうにあるのです。



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第五回大室山ライブ後記1 ~修行のような過酷さ~

 参加された皆様、当日は猛暑の中、大変お疲れさまでした。これまで参加された方はご存知の通り、大室山ライブは、雨が降れば地面はびちょびちょになり、風が吹けば寒く、晴れれば暑いので、決して過ごしやすいイベントとはほど遠い、修行のような過酷なものです。

 そんな中、今年も多くの方々がお越しになられたことに驚きを禁じ得ません。なんと北は北海道、南は沖縄から参加される方がありました。さらに驚くのは、「参加して良かった」、「来年も是非参加したい」という声が多いことでした。大室山ライブは、決して趣旨がわかりやすいイベントではありません。参加さえすれば何かいいことがあると決まっているわけでもありません。それでも多くの方が「参加して良かった」、「来年も是非参加したい」とおっしゃることそのものに、僕はこの大室山ライブの趣旨を見る思いがしてなりません。

 なぜならそれは、参加者ひとりひとりの中に、それぞれの『心声』があった証だと思うからです。参加者の皆さんの心の深奥は、ライブの神髄をご存知だということです。

 僕たちは今、かつては想像もしなかった大変な時代を生きています。サブプライムローン問題や石油高騰、中国の食品の安全問題や公害のように、どこか見知らぬ国で問題が起きると、それが僕たちの生活に直接響いてくるという、歓迎せざるグローバリゼーションです。しかもその響いてくるスピードは、年々加速しているようにさえ感じます。また、次世代を担うはずの人々の中に確実に広がり続けている虚無の闇。自殺や無差別殺人の横行は、僕たちにその深刻さを感じさせずにはおきません。

 いったいこれは何の結果なのでしょうか。僕たちの心の深奥は、それを知っています。例えば、近年僕たちがどこかの町へ行くには、徒歩という『自分』ではなく、乗り物という自分とは『別』の、或は『外』のものにそれをさせます。自分のエネルギーではなく、石油というエネルギーにさせているわけです。

 また例えば、何かの情報を得るには、昔は直接会いに行ったり、手紙を書いたりしたわけですが、今では電話やテレビ、パソコンなどの「手軽で便利で簡単」な方法で入手出来るようになりました。

 様々なものが「手軽で便利で簡単」になってゆく……。近年テレビのCMでは、その「手軽で便利で簡単」という言葉が呪文のように飛び交っています。そして遂には、僕たちが食べる物のほとんどが、外国に生産させたものにさえなって来ました。

 その割に僕たちは全然幸せになっておらず、かつてのバブルの時代を懐かしむ人さえいますが、そのバブルの崩壊も、今思えばある意味では皆で「働かずに儲ける方法」を探した結果ということも出来ます。自分ではない別の外の何ものかに働かせようとした結果、僕たちは失敗したわけです。

 つまり現代の僕たちは知らず知らずに、自分がしたいことを叶えるには、自分とは『別』の、或は『外』の何ものかにさせる習慣がついているのです。しかもそうとは自覚していません。

 それは家族や職場での人間関係にも言えることで、僕たちが口では「人のせいにしてはいけない」と言いながら、自分に害が及べば簡単に家族や同僚の過失や未熟のせいにしてしまうのは、そうした時代背景からくるものでもあります。また、僕たちがつい自分にではなく、自分とは別の外のものにばかり魅力を感じたり、妬んだり恨んだりしてしまうのも同じです。そうしている内に、僕たちはいつしか、『自分』やその『内』側が空っぽになって来てしまっているわけです。

 僕が「大室山ライブの主人公は参加者一人一人だ」と言ったり、「僕は皆さんと一緒には旅しても、皆さんの代わりには旅しない」と言ったり、“才能”という言葉を安易に肯定しないのは、一つにはそうした理由からでもあります。もちろん、他人を褒めることはとても素晴らしいことですが、僕たちはついそれで、自分自身の夢や希望を「手軽で便利で簡単」に他人に託してしまう一面も持ち合わせているからです。実はそこに待っているものは、最終的には自分自身に対する虚無でしかありません。

 「本当に自分には魅力や才能がないのか、本当に自分には問題や過失は無かったのか、もう一度『自分』やその『内』側を見つめ直したい」、「自分の『内』と『外』を繋がなければならない」……、僕はそんな言葉ならぬ『心声』を聞いた人々が、この大室山に集まったのだと思えてなりません。そうでなければ、あんなに過酷で趣旨のわかりにくいライブに、これだけ多くの方々が参加されるわけがないからです。

 大室山ライブは、今後様々な対策を講じたとしても過酷でしょう。決して「手軽」にも「便利」にも「簡単」にもなりません。しかし僕は、だからこそ『自分』やその『内』側を見つめ直すのに良いのかも知れないと思い始めています。もちろん主催者としての責任を放棄しようというのではなく、出来る対策は今後も引き続き考えてゆくつもりです。これはあくまでも、その「手軽で便利で簡単」なものに溢れた時代に生まれ育った『一個人』として、僕が感じていることなのです。



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大室山ライブへのコメント

 大室山ライブは、参加される皆さん一人一人の、いわば人生の定点観測地点です。参加されるにあたり、この一年やこれまでのご自身を振り返って、お感じになられたことや、願われていること、または解決したいことなど、火口で過ごされるご自身の様々な思いを教えて下さい。

P.S.1  大室山ライブは、大室山に来られる方だけが参加者ではありません。大室山ライブとは違う日に、違う場所でご自身を定点観測される方もいらっしゃいます。そうした方々も是非お書き込み下さい。

P.S.2  書き込み内容は『立派なこと』でなくてはならないわけではありません。大室山ライブは決して大願成就や問題解決のためだけに存在しているわけではなく、むしろそうした目的から離れてみる日でさえあります。  そうすることで、思いがけない成就や解決の糸口を見つけることもありますが、願っていたことや問題だと思っていたこと自体が違ってしまうかも知れないのです。  ですから書き込み内容は、他人への要求や批判ではないご自身の一個人としての思いであるかぎり、 基本的には自由です。    

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